ダグラス・バーダー中佐 |
第二次世界大戦で23機の敵機を撃墜したイギリス空軍のエース・パイロットです。文武両道で1931年に英国航空士官学校を次席で卒業。同年、21歳のバーダーはアクロバット飛行中に事故を起こし、両足を切断します。
そして、義足を履いて苦しいリハビリが始まります。医師は言いました「現実を見なさい、杖なしで歩くことなんて出来ませんよ」。しかし、バーダーは「杖は使わない」と誓い、その意思を貫き通します。1930年代に障害者が健常者と同じような生活をすることはどれほど大変だったでしょうか。でも、彼は諦めなかったのです。
空軍パイロットの道を断たれたバーダーは、その後6年間、石油会社で事務員事として鬱々とした日々を過ごします。また、空を飛ぶことを待ち望みながら。
そして、バーダーはクルマが運転出来ることを証明し、ついには、再び戦闘機に乗る機会を得ます。数年間数のブランクがあったことが嘘のように、彼は飛行機を操ることが出来たそうです。
ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まると、バーダーは直接空軍に掛け合い、入隊を許可され、初陣でメッサーシュミット109とハインケル爆撃機を撃墜します。統率力と抜群の操縦技術を持つバーダーは、程なく空軍大尉として第242飛行隊の隊長に任命されます。「足のない司令官が俺たちにはお似合いか」と揶揄する士気が落ちていたカナダ人の部下達をバーダーはその操縦技術で一瞬にして黙らせます。
また、彼は非常に部下を大事にしており、どんなに階級が高い上官に対しても「条件が整わなければ自分の部下を戦地に派遣しない」と主張したそうです。部下の強い信頼を得たバーダーは、第242飛行隊を精鋭部隊にすべく、容赦なく鍛えあげます。
1940年8月13日、ドイツ軍の攻撃により「バトル・オブ・ブリテン」が始まります。ドイツ軍は2週間に渡りイギリス南部を爆撃します。戦闘機の数は3対1とドイツ軍が圧倒していました。8月20日、第242飛行隊にスクランブルの指令が出ます。わずか9機の性能で圧倒的に劣るホーカーハリケーンで100機の爆撃機とメッサーシュミット109に対峙します。彼らは1機も失う事なく、敵機を12機撃墜しました。崩壊しかけていた飛行部隊が義足の司令官により、わずか数週間で精鋭部隊に生まれ変わったのです。
1941年3月、バーダーは空軍中佐に昇進しタングリア航空団の司令官になり、ホーカーハリケーンから最新式のスピットファイアに乗り換え、見事な操縦を披露します。「神から与えられた足がある私に出来ない事を義足を付けた彼はやっていた」と当時の部下は語っています。
1941年8月9日、機体にトラブルを抱えたバーダーはドイツ軍機に撃墜されますが、パラシュートで脱出し捕虜となります。脱出時に片方の義足を失い、捕虜収容病院に運ばれたバーダーに合う義足を作る技術がドイツになかったため、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングはイギリス空軍に新しい義足を投下する許可を与えました。
義足投下後2日目の夜、バーダーは脱走を試みますが失敗。その後、度々脱走を繰り返すため、脱走不可能と言われた収容所に送られ、終戦を迎えます。
1945年、妻の元に戻ったバーダーは英雄として称賛を浴びます。1976年障害者への貢献によりナイトの爵位を授与され、1982年に死去しています。
この人の事を知った時、僕の努力などまだまだだなと思ってしまいました。同時にまだまだやれると思いもしました。
おやすみなさい。